投稿日時: 2011-08-30 13:22:36

■大久保神社 水祭り 安積町牛庭公民館 9月1日神事1時30分〜
●安積疏水の恩恵を後世に残した大久保利通の遺徳を永く伝えようと、牛庭のこの地に明治22年大久保神社が建立されました。大久保様の水祭りは、この頃から毎年旧8月1日に行われてきました。
●現在は老朽化した社屋に変わり建立された記念碑のもとで9月1日におこなわれます。
●現在、牛庭地区は162世帯が生活する緑多き田園地帯ですが、130年前に生涯をかけて進めた大久保公の安積開拓の大偉業と、四国松山藩から海を越え入植をした50名の命がけの努力があったのです。この地区では、現在でも大久保家と親交があります。


投稿日時: 2011-08-03 13:36:35

■湖南町青松ヶ浜 真船豊文学碑
●三谷先生の「湖南頌」冒頭で書かれる真船豊は、明治35年2月16日に湖南福良で生まれた劇作家です。早稲田大学を中退したあと、大正末期から劇作を始め、農民運動に参加しました。戯曲「鼬」(いたち)が郡山でも上演され有名ですが、これは今も福良にある食堂大阪屋の前身であった旅館大阪屋の盛衰とそれに関わった人間模様を描いた作品でした。
●福良に生家の一部が残っていますが、今度の震災で半壊状態です。生家からほど近い青松ヶ浜の松林の南端に真船豊の文学碑があります。碑文は「鼬」の台詞の一部です。
 「なァ、おしま
  生れ故郷ほど
  せいせいすっとこは
  ねえなァ・・・・・」
碑文の刻まれた御影石が、浜の松と湖の青を映していました。


投稿日時: 2011-06-24 09:39:20

■日和田町安積山公園 ほそ道文学碑
●俳人松尾芭蕉が奥州入り(白河)したのは元禄二年(1689)四月二十日(陽暦六月七日)のこと、今
でも旧奥州街道の名残り松並木がわずかに残る、日和田を訪れたのは五月一日(陽暦六月十七日)の事でした。日和田の安積山公園、芭蕉ケ丘に松尾芭蕉のほそ道文学碑があります。
●碑には「ほそ道」と呼ばれる、日和田辺の記述全文が記されていますが、最後は次のような文章で〆られ
ています。「沼を尋、人にとい、かつみかつみと尋ねありきて、日は山の端にかゝりぬ」。松尾芭蕉が花か
つみを探し求めて、日没時にあてもなく彷徨っていたのがこの辺りなのでした。


投稿日時: 2011-05-27 16:13:11

■安積疏水神社 松方正義公お手植えの松と記念碑(熱海町安子ヶ島)
●中山峠を越えた猪苗代湖の水は沼上、竹之内、丸守、三つの発電所を経たのちに五百川の水と合流し夏出を通り安積平野に至ります。安積疏水神社は、丸守発電所麓の水が合流する熱海頭首工管理事務所の敷地内にあり、その中に松方正義お手植えの松とその記念碑があります。
●松方正義は薩摩の人ですが、当時の内務大臣大久保利通の命を受け、安積疏水の建設に尽力した郡山の大恩人です。第4代と第6代の二回、内閣総理大臣を務めました。明治12年に始まった安積疏水の工事は明治16年に灌漑を始めましたが、手植えの松は安積疏水完成40周年記念の大正12年11月に、記念碑は同15年に建てられました。松方正義88歳の時でした。(89歳没)
●沼上発電所は明治29年に完成し、明治32年には日本で初めての長距離送電線を使い安積平野に電気を灯し、その後、紡績産業の発展へとつながりました。
●現代の我々は、3.11の大震災でも電気と水が生活に不可欠なことを身をもって知りましたが、日本の近代文明の黎明期にこの二つのライフラインの構築を一気に成し遂げた松方正義のスピーディーな仕事に頭が下がります。


投稿日時: 2011-04-27 09:20:13

■宮本百合子文学碑(開成山公園内)
●安積開拓を舞台にした小説『貧しき人々の群』で文壇にデビューした宮本百合子の文学碑が開成山公園内五十鈴湖の河畔にあります。建てられたのは昭和51年4月。
●宮本百合子は、安積疎水そしてそれに続く安積開拓に情熱を傾けた中條政恒の孫で、宮本顕治と結婚をしましたが、少女時代と昭和20年の終戦をこの地でむかえました。
●文学碑には同上の小説の末尾の部分が刻まれており、碑文を読み目をあげると五十鈴湖の向こう側に、かつての貧しかった桑野村の幻が立ち現れるような気がします。


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