投稿日時: 2012-11-30 15:55:02

■静御前堂 郡山市静町

●静御前は平安末期から鎌倉にかけて波乱の人生を生きた実在の女性で、源義経のお妾さんでした。母親の代から続く白拍子(舞女)だったといいますが、舞踊が今より政治的、呪術的色彩が強かった当時、庶民より武士に寄り添う巫女に近い存在だったと思われます。静御前の最後にまつわる伝説と史跡が、郡山市にも残されています。
●鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によれば、兄の源頼朝に追われて都落ちをした義経を追って捉えられた静御前は、鎌倉の北条氏のもとで暮らした後、京都に戻ります。しかしその後のことは記録がなく、全国各地にたくさんの伝説として残っています。
●これは、郡山に伝わる伝説です。奥州藤原秀衡のもとに下った源義経を追い、静御前は密かに鎌倉幕府の目を逃れて、京都から乳母と下僕の小六とともに義経のいる平泉に向います。その難路の途中、花輪の里(郡山市)で小六は病に倒れ、八方塞がりの静御膳は「最早これまでと」池に身を投げたと伝えられ、その霊を里人が祀ったのが静御前堂だと言われています。1189年(文治5年)今から800年以上も昔の話です。
●現在の御堂は1781年(江戸時代中期)に再建されたもので、堂内には「静御前木造」が安置され境内には小六の墓、近くには身を沈めたとされる「美女池」が今も残っています。
●昔話「針生の御前さま」として語り継がれているお話でもあります。


投稿日時: 2012-11-05 10:43:50

<文学歴史散歩>
■中條邸跡記念碑  郡山市開成3丁目(開成緑地)

●開成山公園の近く、国道45号線沿いの開成郵便局の東方200mの場所に約500坪の緑地があります。ここは昭和41年まで安積開拓の父、中條政恒の屋敷があった場所でした。
●中條恒政は米沢藩士でしたが、福島県の役人になり不毛の地と呼ばれたこの地の開拓の先頭に立ち、明治9年には開拓村―桑野村が誕生しました。その後政府事業による、安積疎水と安積原野の開拓が進められ、全国の旧士族が移住してくることになります。
中條恒政の安積開拓の情熱は郡山のみならず、東北開発の最初の起爆剤になったのです。
●碑文には『安積開拓の父、中條政恒は晩年をこの地に終えた。政恒の孫、宮本百合子はその作品「貧しき人々の群」「播州平野」の舞台をこの地に採った。』とあります。
安積開拓の指導者中條恒政の顕彰と共に、この地が優れた文学の素材となったことを後世に伝えようという意図を感じる碑文です。
●さらに『昭和41年4月、有志相寄りこの碑を建てた。』とありますから、屋敷を取り壊す際に建てられた碑だと思われます。


投稿日時: 2012-10-04 17:18:10

■今泉桐舎(きりのや)句碑  郡山市大町1−2−3 今泉女子専門学校庭園内
●本名は今泉丈助(じょうすけ)氏、大正7年今泉学園の前身、郡山裁縫稽古所を創始しました。(慶応3〜大15)
●文学、音楽、スポーツなど、多分野に才能を発揮しましたが、とりわけ俳句をこよなく愛し群峰吟社の同人として活躍し、正岡子規、内藤鳴雪、河東碧梧桐など、明治を代表する俳人と交わした手紙や短冊が大切に保管されています。
●正岡子規の病気を気遣い桐舎が見舞いの真綿を送ると『みちのくのあだたら真綿肌に着て寒さゆうべぞ君し思ほゆ』と子規の歌が届き、桐舎は早速『いたつきになやめる君がしのばれて雪の一夜をあかしぬるかな』と返歌したといいます。恋文のやりとりにも似た濃密な人間関係を感じる逸話です。
●碑文は『雉子鳴くやくづの松原小雨降る 桐舎』。
郡山で教育と文学に生涯を捧げた今泉桐舎の小さな句碑の背景に、明治を代表する文学者たちとの信頼関係がみてとれます。


投稿日時: 2012-09-06 15:18:24

■鈴木信教銅像  郡山市堂前町4−24 如宝寺境内
●明治初期、如宝寺の住職を務めながら、寄付に頼らずに自費で孤児や貧しい子供たちを
お寺で養育して、「みちのくの良寛さま」「生き地蔵様」と呼ばれた鈴木信教の銅像が、如宝寺本堂脇にあります。
●鈴木信教は、収容児の名実ともに父母となり養育した子供の数は200人に達するといいます。自身は粗衣粗食に甘んじて、養育事業、学校教育、地方開発に全生涯をかけ尽力した郡山の福祉の父でした。


投稿日時: 2012-07-25 14:31:33

■小林久敬(こばやしひさたか)句碑  郡山市荒池愛宕神社境内

●小林久敬は1821年須賀川で生まれました。天保の大飢饉を経験し、安積疎水の必要性を明治政府に強く訴えましたが、聞き入れられずに孤軍奮闘、全財産をつぎ込んで測量をおこなうなど用水路づくりに打ち込みました。
●実際には、明治政府がおこなった沼上峠の工事で安積疎水は完成しますが、その陰には猪苗代湖の水で安積平野を潤したいという、小林久敬の30年を超える情熱があったのです。
●無一文になった小林が、あばら家を建ててひっそりと暮らした荒池の近く愛宕神社境内に句碑が建っています。
●晩年、小林久敬は如法寺住職鈴木信教を唯一の友とし、彼に看取られて明治25年に生涯を閉じましたが、それは奇しくも第2安積疎水が完成した年でした。
碑文は「あらたのし田毎にうつる月のかげ」です。小林が長年夢に見た安積平野の田園風景が実現したのです。


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