■雪村庵 郡山市西田町大田
●室町時代の禅宗の画僧「雪村周継(せっそん・しゅうけい)が晩年に住んでいたといわれるのが今も西田町に残る雪村庵です。
●出生やその生涯には不明な点が多く、生没年もはっきりしませんが少なくとも82歳までは、この庵で絵を描いていた記録があります。
●倉岡天心は雪村の作品を「禅の理想」と表現しており、「雪村の偉大な作品は、自然の描写ではなく。自然についてのエッセイなのだ。一筆一筆が生と死の契機である。生命の中の生命である。雪村こそ疑いもなくこの時代の最も傑出した芸術家である。」と『東洋の理想』の中で述べています。
■高山樗牛文学碑 安積高校敷地内
●県立安積高等学校の前身は、福島市に明治17年福島県福島中学校として開校しました。校舎が郡山市に移転したのは明治22年ですが、福島市時代の開校1期生に高山樗牛(本名 林次郎)がいます。
●東大在学中に発表した「滝口入道」が読売新聞懸賞小説で入選して話題になり、その浪漫的美文調の文章が明治期の青年に広く読まれました。
●東大卒業後は、雑誌「太陽」を編集して評論活動等で活躍をしますが、日本主義、ニーチェ主義、日蓮主義と短い人生の中での思想遍歴は、日本近代化の思想の悲劇を象徴しているといわれ、文学者としては現在評価の分かれるところです。
●高山は、山形県鶴岡市の生まれですが、養父が福島県庁に勤務、それに伴い福島市に住み福島中学に学びました。明治19年には父の東京転勤で退学をしましたが、安積高校では樗牛が学んだことを誇りに、成績優秀者に贈る「樗牛賞」を設けています。
●高校敷地内に高山樗牛の文学碑があります。碑文は「人生は価値なり」。
樗牛の名言「己の立てるところを深く掘れ。そこには必ず泉あらん。」を思い出します。
●この碑は、安積高校創立100周年にちなみ、「安積を語る会」という有志によって建てられました。
■田村神社 (田村町山中字本郷135)
●創建は大同年間(西暦806年〜810年)だと言いますから平安時代の初めです。
大変に歴史が古く坂上田村麻呂が東夷征伐の際に鎮守山泰平寺を建立したのが開祖と言われます。長い間、東北を代表する古刹として人々の信仰の拠所となり、明治になり神仏分離令により現在の田村神社になりました。御本尊は大元師明王像です。
●中でも現存する厨子は安土桃山時代の作で古く、その他にも鳥居派の浮世絵師によって描かれた絵馬や蒔絵などが奉納されています。
●元禄2年4月29日には松尾芭蕉が曾良と共に参拝した記述が『曾良旅日記』の中にあります。「先大明王ヘ参詣。裏門ヨリ本実坊ヘ寄、・・・・(数々の宝物を見学した後で)
・・・・探幽ガ大元明王ヲ拝ム。」
●息を切らして急な階段を登り、仁王門を抜け境内に入ると、気分は元禄、安土桃山を通りぬけ平安時代まで遡ります。
■諏訪三郎文学碑 郡山市湖南町赤津
●諏訪三郎は、明治29年12月3日生れの小説家で、代表作に「家」「大地の朝」などがあります。本名は半澤成二ですが、ペンネームは故郷赤津で子供の頃に遊んだ、生家近くの諏訪神社からとりました。
●半澤家は赤津の大地主でしたが、父親が政治に深入りをして没落をしました。そのため諏訪三郎は小学校を卒業して14歳の時に家族とともに上京、その後苦学の上「中央公論」の編集者となりました。
●太平洋戦争時には疎開のために故郷に帰り、終戦後も4年間湖南で暮らしました。その生活は経済的にはあまり恵まれませんでしたが、福良文化協会を設立させ自らはその顧問となり湖南の文化運動に離村するまで尽しました。
●諏訪神社は、秋山浜の近くの小高い林にあり、境内に文学碑があります。
■清水池公園の今泉久次郎胸像 郡山市逢瀬町多田野字清水池
●浄土松公園の近くに「清水池」という小さな池があります。周囲を小公園に整備されたこの池は、実は郡山市の水道発祥の地なのです。
●明治45年に安積疏水による近代水道が完成する以前の郡山の水源として、明治23年にこの場所から11?の木管を繋ぎ合せて水を引き、市街地への給水が開始されました。
●池のほとりに、今泉久次郎の胸像が建てられています。この方は明治22年に郡山が村から町に昇格した際の初代町長でした。この町長の情熱あふれる努力と毎日200名の人々が2年の歳月を費やした労働力が多田野水道を完成させ、東北で3番目という近代水道実現につながる大きな力になったのでした。多田野水道は、安積疏水の完成とともに20年間でその役割を終えました。
●像は、郡山の水道創設者としての今泉久次郎の功績を長く伝えようと、昭和58年に青年会議所が建立しました。胸像の制作は郡山出身の彫刻家、佐藤静司です。