投稿日時: 2012-03-05 16:35:05

■「柳田国男先生紀行の道」記念碑  郡山市湖南町舘88
●「猪苗代湖では東南の一隅が最も好いと思う、しかも九月の夕月の晩であった。・・・」で始まる紀行文『勢至堂峠』に記述があるように、明治38年9月に当時31歳で全国農事会の幹事だった柳田国男は石筵から湖南を歩き、三代に一泊して勢至堂峠を越え白河に抜ける紀行をしています。目的は石筵と三代での馬市の視察でした。
●碑文の表面には「日本民俗学創始者柳田国男先生紀行の道」と共に「しをりすとたたずむ道の山ぐちに / 又かへりみるこしかたの雲  国男」の歌が刻まれています。
しをりす=栞す ですから、民俗学を究めたいという柳田国男の並々ならない決意がこの歌からも読んで取れます。柳田国男にとっての坂の上の雲は民俗学だったのでしょうか。
●柳田国男の門下生であった、山口弥一郎、岩崎敏夫に師事し、湖南の民俗研究に没頭した故橋本武氏の私邸、県道脇に碑があります。
●橋本武氏の御子息、橋本勝雄さんに取材しました。


投稿日時: 2011-12-27 17:43:59

■祓川光義(はらいがわみつぎ)詩碑(安積公民館牛庭分館)






●石
ぼうぼうとぺんぺんぐさの
生いしげっている
虚無の坂にさびしくころがるもの
北風につめたくさらされて
声なき「わらい」を笑うもの
石―石 石 石 石 石
山のてっぺんを悲しく吹いている
影のように音あせた風音に
石は聾(みみし)いの
虚しい耳をそばたてる

●祓川光義は明治37年(1904)に安積町上牛庭422に白河藩からの入植者の孫として生まれ、後に福島県詩壇の創成につくしました。
●農業のかたわら文芸に親しみ、独学で官吏試験に合格して上京、逓信省に入り、東京では炬火同人となり詩人としても活躍をしました。しかし、肺を病み帰郷、その後も詩を詠み続け昭和2年(1927)東北を代表する詩誌「北方詩人」を創刊しました。
「北方詩人」は、昭和8年に晩年の宮沢賢治が詩「産業組合青年会」を寄稿したことでも知られています。
●昭和4年、25歳の若さで亡くなった祓川が残した一冊の詩集「暮春譜」は亡くなる前年の発行で、わずか300冊刷られましたが現存するものは極めて少なく、80頁に満たない小さな詩集が、今では希少本として高値で取引されています。
祓川光義は短い命を削るようにして、昭和の初めに東北詩壇の礎を築いたのでした。
●安積公民館牛庭分館の庭に、「暮春譜」に収められている、上記「石」の詩碑が立っています。坂道の無数にころがる石を人に例えた、普通の易しい言葉が胸をうちます。


投稿日時: 2011-12-27 17:41:49

■中山義秀文学碑(郡山文学の森)
●中山義秀は明治33年に現在の白河市大信に生まれました。
郡山にも所縁が深く金透小学校、安積中学校(安高)と若い時代を郡山で過ごしました。
●特に、多感な安積中学時代に自分で制御できない感情の起伏の激しさに苦しんだりしながら、救いを求めるように文学に傾倒していったといいます。
●その後早稲田大学の文科に進み、教師をしながら文学の道を歩みました。38歳の時に『厚物咲(あつものざき)』で第7回芥川賞を受賞し、歴史小説をはじめ多くの著作を残しました。
●文学碑は文学の森東側にあり(体育館側)、母校安積高校の同窓会安積桑野会が
生誕100年を記念して2001(H13)年に建立しました。


投稿日時: 2011-12-27 17:37:23

■おしどりの碑 (中田町赤沼)
●民話「赤沼のおしどり」は中田町にあった赤沼が舞台の、つがいのおしどりと一人の武士が登場する夫婦愛がモチーフのお話です。同様の伝説は小高町、長沼町、小野町、隣県の宇都宮市などにも残され、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」にも収められています。
●「古今著聞集」などに題材を採った、小泉八雲の代表作「怪談」に収まる「おしどり」は、物語の地名や人名などの考察から「赤沼のおしどり」がルーツであるという研究報告があるのだそうです。
●昔、中田町の赤沼があった辺りに一対のおしどりの碑が残されています。1314年(生和3年)に建てられたこの碑は摩耗して彫られた文字は読み取れませんが、少し離れて見ると仲良く並んだ大小2つの石碑が、まるで水面に浮かんだおしどりの様にも見えます。
●以前と比べて周りも有志によってきれいに整備され、慎ましく暮らしていた庶民の物語を刻んだ石碑が、地元の人々によって大事に守られているのを肌身で感じて、歴史を守るとはこういう事なのかもしれないと清々しい気持ちになりました。


投稿日時: 2011-10-07 18:08:08

■中西悟堂句碑 (五百淵公園)
●「ロハスがなんじゃ。スローライフがどうするんじゃい。環境保護団体が何で捕鯨船にペンキを投げるんじゃい。今頃、翁はお墓の中で怒鳴っていると思います。」<松岡正剛>
●日本野鳥の会の創立者として有名な歌人中西悟堂は、単なる野鳥研究家ではありませんでした。今から半世紀以上前に、機械文明、消費文明の行き過ぎに警告を鳴らしていた思想家でもあったのです。「私には自然への帰依信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようにもなっていた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった。」『愛鳥自伝』
そして、実際に林の中に机を置き、裸で本を読み、雑草やメダカを食したのでした。
●悟堂は、昭和9年38歳の時に『日本野鳥の会』を創設しましたが、その趣旨に大いに賛同したのが郡山の湯浅大太郎先生でした。中西悟堂は湯浅先生の招きで幾度か郡山を訪れていますが、碑文の句は、当時南側が菜の花畑だった五百淵で詠まれたものです。
「三光鳥 菜の花すりて 一文字に」
碑はS28年5月に、日本野鳥の会郡山支部の手により建立されました。


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